昭和42年8月25日 夜の御理解
信心の道を分かると云うこと。やはりあの道が分からないと行くところへ行けない。道があるから目的の地に行けれるように、道なしのところでは我流になったり骨が折れたり致します。だから道に基づいてお互いが信心を進めて行く。道を求め求めして行くと云うことはどういうことか。道が分かると云うことはどういうことかと云うと結局自分の我情、我、又は我欲と云ったようなものを外して行く。その稽古を一生懸命することが信心の道をほんとに体得することであり、真の道に出られる道はそれ外にはない。世間で我の強い人とか、欲の深い人とか人間に誰しも欲の無い者はなかろうと、ですから、神様はその欲を捨ててしまえと仰ってるのではない。
我欲を捨てよと仰る。ですから、自分のその欲しておるそれが我欲であるかどうかを見極める。そこで最近私はそれをどういう風に皆に言っておるかと云うと、様々な問題を持ち込んで来られる最近の問題はもう本当にもう大変な問題ですよね。色々人生の中にあるこういう様々な問題があるんだなあと思う位に色々問題がございますけれどもそれを取り次がせて頂く私としては、まあほんならそれを様々な問題から道づけをしてやって、その道付けをしてその道をお互い歩いて、そして成程神様のおかげだったなあ、おかげを受けたなあと云う様におかげを受けて行く。まあ道の取次をさせて頂く訳なんですけど、それにはどう云うてよいやら分からない。どう言うたらよいか分からない程にあるのですけれど結局私は決め手とでも申しましょうかね、どうでもよいと言う気になれけれど,
どうでもよいと言うたって、先生こうあって欲しい、こうこうありたい、こうお願いしますと願いがあるからこそ、願いに来てるのに、先生どうでもよいと言われたんでは誠意がないと言われる。そこでまあ、お話を聞かなければならないと云うことになる。天地のこと訳を聞かせて貰い、天地の大恩を分からせて貰って、分からせて貰いよると成程これはどうでもよいと云う心の状態と云うことは大変なことだと、ほんとにおかげ頂きたいならば、成程神様の懐の中にあるんだなあ、大徳の中に生かされているんだなあと分からせて頂く為には、成程我を捨てなければいけないんだなあ、欲を捨てなければいけないんだなあと云うことが分かる。そこに話を聞く稽古が要る。信心の稽古が要る。言い表せて貰う稽古が要る。様々の難儀な問題を持って来て、さあどうでもよかと言う気になんなさいと言うたんじゃあ、なかなかみんなが合点がいかん。
けども結論としてはやはりそういうような状態が心の中に開けてくる。
先日信徒会にここから二、三人の方が参りました中に、信徒会の会長でありますところの平田さんが何時もこんなもの、自分の信心を書いて皆さんに示されるらしいですね。一部を読んでみましょうかね、なかなか御自身がああして大きなおかげを受けておられ、お徳を受けておられますから、そこから出てくる、いわゆる言葉ですから、ほんとに成程、成程の合点の行くことばかりです。
「助けられ、教えられつつ使われつ、お徳授かりおかげとぞなる」と、いうような 教歌の様な口調で書いてございますね。助けられ、教えられつつ使われつ、助けられ教えられとかいうところが先ずなからなければならんと同時に、使われなければならん。これを御用と云う訳でしよう。助けられ、教えられるところの喜びが、いわば使われることになる。神様に使われることになる。そこにお徳が授かり、おかげとぞなると、云う訳ですね。欲も我も捨ててすがれば、神が抱くと云うようなことが書いてありますね。これは今日私が言おうとしているところなんです。欲を捨てる、我を捨てたら、そしてすがれば神様が成程抱き抱えて下さるんだなあ、成程我が身は神徳の中に生かされてあるんだなあと云う喜びが頂ける。これだけですよね、信心とは。けれどなかなかこの欲を捨てて我を捨ててと云うことは出来ん。だから欲を捨てた、我を捨てたという世の中にそういう人がありますよね。世捨て人と云ったような何の欲もない、瓢々とした、淡々とした毎日、そういう生活をしておると云ったような人達が今でもまだある。昔はよくあったですね。それだけではいけない。我を捨てた・・?だけではいけない。すがらなければいけない。教祖もそこんところを真の道を知れよと仰る。我情我欲を離さなければいけない。真の道を知る為に、お互いが信心をしようとするところに、助けられ教えられつつと、云うところがある。だからその教えられつつと云うところに私は日参の有難さがある。毎日信心の道を教えられ、そこに助かりがある。だからそれだけではいけない。助けられるその喜びをもって御用に使われるという身分にならなければいけない。そういう稽古をさせて頂くところから、私はね、我を云うことが損をする。欲を言うことは馬鹿らしかと云うことになるのです。もうそれこそ心を揉んで頭を痛めて、それこそ夜も眠られんように我の為に欲の為に苦しまなければならない。けれども、なら我もあり欲もあるのですから我のことも欲の事も一応はお取次を頂いてお願いをする。そして神様にお任せすると云うところにです、もう我がない。そうでしょう。どんな願いでもいい。人間が生身を持っているから痛ければ痛い。痒いければ痒いい。欲しければ欲しいということを先ず願えばいい。そしてお取次を願うたら神様にお任せすると云う心を作れと云うこと。願いは神様にお預けする。そして自分はさっき私が言うようにどうでもよいと云う気になれと云うことである。そこにいわゆる杉山さんもこれは自分の体験から言うておられることでございますようけれど
神が抱くとこう言われておられます。いわゆる神徳の中に生かされてあるんだなあ、神様が見通しだなあ、聞き通しだなあ、そして私をこのようにして私を抱き抱えて下さる世界、いわゆる神徳の中に生かされてある世界を体験する。この体でそれを体験をする。そこに信心生活の妙と云うのがあるのでございます。ですからどうでもひとつ、皆さんが助けあい、教えられというとこ、もう教えを受けて行くと云うこと。教えを受けて行くことの楽しみが先ず分からなければいけない。そこには必ず、助かりの道が開けてくる。だから助かりの道が開けてくる。おかげを受けておるんだなあ、おかげが有り難い、勿体ないと云うことになるでありがたいそのもったいないというのが使われると云うことになる。
神様に使われる。それは必ずしも神様の御用、教会の御用という意味ではありません。神様に使われると云うことは、あなた自身の持っておられる職業がそのものが、神様の御用であるといわゆるそれを天職と云うような言葉でも申します。
神様の与えられ給うところの仕事を有難く、かたじけなしとそれを受けて行くと云うこと。ですから、今日も結構なるお使、回しを頂いて有難いと云うことになる。そこにいわば、私が働いたと云う我がないから、もう本当にそれは有難いことになってくる。
自分の我情我欲で働くこれしこすりゃいくらになるけんで、こがしこしとかなければ、というてその我情我欲の為に働くのではなくて、あなたの御用に使われると云う身分にならせて貰う。いわゆる喜びが、助けられて行くところの喜びが使われるということになってくる。
そこから私はなるほどあああるがええ、こうあるがええなんていう思いは我であってほんとにその我を捨てることが欲を捨てることが、そのような思いもかけないと云うおかげになってくるたいと、体験をしてそういう体験の中に、そういう神様のお恵の中に生かされて行く喜びを分からせて頂きながら生活をさせて頂くと云うのが、信心生活。そういう生き方が真の道を求め求めして行く生活、ね。
教祖様の言葉は本当にお互いがそれどころではないという思い、体験を自分自身が頂かなければならない。欲も我も捨ててすがれば神が抱く」と云う簡単な言葉ですけれども、神様に抱かれておるんだと。もうそれは乳飲み子が母親の懐に抱き抱えられておる様なもの。必要な時に乳にすがれば乳が与えられると云うように何の不安もなければ心配もない、そういう生活が出来るんです、私共は。それを私共が知らない。何故分からないかと云うと、真の道を求めないからである。真の道を求めると云うことがお道の信心なんだ。そこにはやはり、教えられつつと云うことがなからなければいけない。教えられなければ分からん。又自分の思うておることが我情であるか我欲であるすらも分からん。我情我欲をやはり離れて、そこに初めて神様の大徳の中に抱き抱えられておると云う実感、そういうおかげ、最近私、ここで信心の稽古をしておっても何年、もう何十年信心の稽古をしておっても、やはり様々な大きな問題が起きて参りますと、やはり目の前が暗うなることある。けどその時にお取次を頂く時に、さあ日頃の信心にもの申し上げるのはこういう時ばい、というわけなんです。そういう人達に対して非常にこのこういう時ばい、こういう時どうでもよいという気にならんのと云う訳。五年、何十年信心さして頂いている人達はそれがすきっと、神に従ったことが分かるらしいんですね。心の中に、はあ、あれがこうしていきたいというような願いをしていたところに楽な気分が開けてきて、本当に親先生なるほど神様の懐の中に抱えられておると云うそういう味わいに似たような体験が生まれてくる。
金光様の信心はそこがあるから有難いのである。それが体験されるから私は金光様の信心が止められんということであるのである。只御利益があるとか、只断片的なその場その場のおかげを頂くと云うことであったら、必ず合楽でなくても金光様でなくてもよかろうけれども、そういうところを身をもって私が感じておる。身をもって体験しておる。その私の頂いておるものを皆さんに見て貰い、同時に聞いて貰い助かって貰い、御用に使われていかれる道をここに皆さんに聞いて貰って、そこに吾が身は神徳の中に生かされておると云う。有難いことだなあ、勿体ないことだなあと云う毎日が過ごせれる道が開けてくる。そういう道を真の道と云うのである。しかもこの真の道は限りが無い。何処まで歩いても歩いても限りが無い。そんなに有難い道なんですね。 どうぞ。